グローバル教育
テマセク生命科学研究所・上級主任研究者 シンガポール国立大学生物学科・併任准教授 (現:大阪大学大学院生命機能研究科 教授)甲斐 歳恵 氏

海外で育つ子どもたちはどのように未来へ向かって歩んでいけばよいのか、親が出来ることとはいったい何なのか。専門家から進路や将来を見据えたアドバイスをいただきます。

はじめに

私は、数多くある職業の中でも、研究者はもっとも世界のグローバリゼーションにさらされている職業の一つではないかと思っています。なぜなら、研究成果を世界に発表することを常に求められるからです。どこで研究していても競争相手は世界中にいるので、必然的に使用言語は英語であり、国籍・人種・性別・学歴を問わず、業績さえ認められれば、世界のどこにいてもポジションを見つけることができるのです。

私が実際に研究現場で見てきた、シンガポール、米国、そして日本の教育環境を比較しながら、それらが日本人の学生達にどのような意味をもたらすかお話ししていきたいと思います。

テマセク生命科学研究所・上級主任研究者 シンガポール国立大学生物学科・併任准教授 (現:大阪大学大学院生命機能研究科 教授)甲斐 歳恵 氏

シンガポールをとりまく教育環境

資源を持たないシンガポールは、科学立国として、この国際社会を生き抜こうとしています。そのための国家戦略として、教育に重点的に予算を割いています。大学や研究所の設備や研究内容は、欧米にひけをとらない水準で、世界中からトップレベルの研究者がその研究環境を求めて、この国に流入しています。実際に、私が目の当たりにして驚いたのは、シンガポール国立大や南洋工科大の学生はもちろんのこと、17~18歳の若い高等専門学校生(ポリテクニク)の理解力やライティング・プレゼンテーション能力、実質的な研究能力の高さです。ポリテクニクでも日本の大学よりも立派な実習設備が整っており、実習内容は日本の大学と同程度、あるいはより高いレベルでした。こうした高校までの「マス教育」のレベルは、シンガポールは間違いなく世界のトップレベルと言えるでしょう。

しかし、シンガポールの教育が100%成功しているかと聞かれると、やはり多少の弊害があると言わざるをえません。近年、改善が見られるものの、小学校からのテストによる選抜や詰め込み教育には課題があります。シンガポール国立大でファーストクラス・オナー (※1) を取るようなトップレベルの地元の優等生達が、必ずしも、鋭い観察眼を持ち、実験による仮説の検証能力を備えた、優秀な研究者の卵だとは限らないからです。

この国では功利主義が幅を利かせていますが、目先の収益を優先した応用研究だけを重視すると、科学技術は必ず先細りしてしまいます。先進国の一員として、人類の科学レベルの向上に貢献するためにも、利益だけを優先した政策を採り続けるのは、かえって国益を損なう可能性もあるのです。そのような中、基礎研究にも注力すべく、私の所属するテマセク生命科学研究所(以下TLL)は、シンガポールの投資企業、テマセクホールディングズが出資し、2002年に設立されました。TLLはシンガポール国立大・南洋工科大と提携している研究所でもあります。

同研究所の博士課程には、世界中から年間でおよそ100~150の応募書類が届きますが、私がシンガポールに来て6年、日本人の応募書類を見たのは、たったの一度だけです。 多少の日本人は大学院からアメリカなどに留学していますが、それにしても、海外の大学院に進学する日本人は少なすぎます。日本の大学院の採用基準が世界の応募基準とは異なるので、応募を両立するのは難しいという実質的な理由もあります。でも、シンガポールの大学院・研究所といった高度な教育機関ではそれぞれ、進学志望者を対象にオープンハウスを開催したり、博士課程での経済的支援も充実していますので、日本人学生も今後は日本以外での高等教育にもっと目を向けるべきでしょう。

(※1)オナー制度 英国の大学およびそれに準ずる各国の大学で採用されるオナー制度では、通常の学士は3年間で卒業し、ファーストクラス・オナーおよびセカンドクラス・オナーの生徒のみが4年目に在籍を許される。

さまざまな教育環境

第一線での研究を目指すのであれば、やはり最先端を走る研究所が数多くひしめくアメリカで実力をつけるのが近道だと、多くの研究者は考えます。日本で大学院を終えたばかりの私が、手探りで出した結論もやはりアメリカ行きでした。

アメリカの研究現場を支える研究者の多くは外国人です。アメリカで業績を積んだ人たちが故国に帰って業績を出すようになったので、科学後進国だった国々、とくに中国・韓国などからの素晴らしい論文がここ5年でうなぎのぼりに増えました。一方日本人はどうでしょうか。研究者はみな日本の凋落に危機感をいだいていると思います。

ただし、アメリカの教育システムをやみくもに絶賛することは危険だと思っています。なぜなら、アメリカでは、自由に生きるためには、日本と比にならないほど「力」と「能力」が必要であるからです。アメリカ社会の素晴らしさとともに、病巣ともいえる部分ー人種による所得格差、所得による教育・医療格差、それらが世代を超えて受け継がれ、這い出すことが容易でないこと、ゆがんだ選民意識などーを垣間見てしまうと、パラダイスはどこにもないのだというシンプルな結論にたどりつきます。その一方で、シンガポールで育っている日本人のお子さん達は、複数の国や文化を比較する感覚を自然に備えていますので、これは非常に恵まれた経験と言えます。

一般的に、日本人は英語で他の国の人たちと同じ土台でやっていくことに対して極度に困難なことと考えてしまう傾向があるように思います。こういった心理的な障壁を払拭するには、シンガポールに住むことは絶好の機会です。 私自身、渡米直後は生活面でも英語に苦労することがありましたが、一年後には研究現場での英語のプレゼンテーションが問題なくなり、プライベートでは日本人以外の研究仲間とも楽しくつきあえるようになりましたので、年齢はともかく要はどれだけ公私ともに場数を踏むかだと思うのです。

テマセク生命科学研究所・上級主任研究者 シンガポール国立大学生物学科・併任准教授 (現:大阪大学大学院生命機能研究科 教授)甲斐 歳恵 氏 研究所の様子

日本の教育の功罪と今後

シンガポールに追いつかれる状況ではありますが、現在でも日本の高校までの「マス教育」のレベルは高いと感じます。また、大学院をはじめとする日本の高等教育では、基礎研究を大切にする研究風土があり 、目先の収益だけにとらわれた応用研究だけに走らないのが良い点です。特殊分野や繊細かつ集中力を必要とされる研究で、日本人の特性が生かされることがあるだけでなく、研究分野にも多様性があります。こういった日本の研究風土は、思わぬ発見をもたらす可能性があり、目先の利益以上に、人類に貢献する可能性を含んでいます。対照的にアメリカでは、国策や企業からの潤沢な経済的支援を背景に、収益をあげるための応用研究に重点がおかれがちです。

日本では少子化を受けて、大学・大学院が縮小傾向にあります。今後は大学の統廃合が進み、今よりも競争原理に基づいた、欧米諸国に近い環境に変化していくでしょう。また、英語で授業を進められる教授陣の確保も課題です。現在文部科学省が進

めるGlobal30(以下G30) (※2) により、日本の大学の国際競争力を強化しようとしていますが、今後の動きに注目していく必要があると思います。

現在では、各大学院でキャリアパスセミナーが盛んに開催され、キャリア構築ノウハウの伝授について改善されつつあると思います。一例として、G30に採択されている大阪大学のプログラムがあり、私も昨年キャリアパスセミナー講師として招聘されました。参加した学生の国籍は、中国、台湾、韓国、タイ、スウェーデン、インド、カナダ、イギリス、アメリカ等です。日本人学生も参加していましたが、どの人もインターナショナルバカロレア(IB)など、一般的な日本の教育ではないバックグランドを持った学生達でした。

彼らのような日本人学生を先頭に日本人が世界の潮流に乗って大成するには、研究者、企業人ともにもっとアピール力、企画力、そして競争社会で生き残るタフさが不可欠だと思います。日本人は世界でも特筆すべき繊細な感性、集中力、多様性を受け入れる柔軟性、目先だけに捕らわれない広い視点といった優れた特質をすでに持っています。これらを補強することができれば、更に大きな可能性が開けると思います。

(※2)Global30 文部科学省が推進する、大学の国際化のためのネットワーク形成推進事業。同事業に採択された13大学において、留学生の受入れや、日本人学生の海外留学の飛躍的増大を目指してさまざまな取り組みを行っている。

親として

私は自営業を営んでいた両親のもと、ある意味放任の家庭で育ちました。学校が休みの日には、 園芸本を読み漁って祖母の庭を勝手に改造したり、お菓子作りに没頭したりと、好奇心の赴くままに親の目の届かないところで一人試行錯誤を楽しんだものです。結果的にその気ままさが、その後の自分には、良かったようにも思います。二児の親となった今、我が子にはあまり干渉しないように心がけていますが、意外と難しいです。フルタイムで働くのはそんな自分に物理的にブレーキをかける意味でも良いように思っています。

シンガポールに暮らす日本人にとって悩ましいのは、カリキュラムの異なる学校の選択肢が多いことです。 我々の子供達は、インター校で英語と中国語の学習、家庭では日本語の学習があり、親としても子どもを励まし支えていくのが大変な状況です。しかし当の本人たちは、自分のクラスメートがごく普通に2~3 ヶ国語を話すことを知っているので、複数言語の習得は当然のことと捉えているようにも見受けられます。グーグルアースで地球を回しながら、クラスメートの出身国を探している子どもたちを見ていると、私とは違う時代に生まれ、気負いなくグローバリズムの中で育っているのだなと感じます。

職業柄、プリンストンやハーバード、イェールといった世界のトップレベルの大学を卒業した人たちに出会ってきましたが、皆が成功しているわけでも、満ち足りた人生を送っているわけでもないことに気づきます。人生は終わりなき探求の旅であり、良い大学で学士号、あるいは修士・博士号を採ることは、最終ゴールでもありません。親としてまた教育者として、子どもや若い世代に望むことは、学ぶこと・知ることを喜びと感じられる人間に成長することです。どんな小さな幸せも有り難いと思える心、困難に負けず、周りを説得していく力を養うこと、社会をより良いものに変えるために尽力できることを喜びとする人間に成長することです。

子どもたちは我々の宝です。日本の国際競争力・国際社会での地位の低下が叫ばれる今、日本人としてのアイデンティティを失わずに、この広い世界で日本の将来に尽力できる人材を育成することは、国民的なテーマです。そこに貢献する責任がシンガポール在住の親御さん一人一人にあると私は思います。私自身もその一助になることができれば、これに勝る喜びはありません。

※甲斐歳惠氏は、2015年10月1日をもって、大阪大学大学院生命機能研究科教授として異動しました。

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