グローバル教育
お茶の水女子大学名誉教授 医学博士 小児科医 榊原 洋一氏

多様な社会で「共感力」を培ってほしい

はじめに

私が医師を志したのは高校生の頃です。大企業による不正など、人々の信頼を根底から揺るがす事件のニュースに大きなショックを受け、「社会や組織がどう変化しても価値が変わらない仕事は何か」と考えた時に、「人の命を救う仕事の尊さは普遍的なものだ」と思ったのがきっかけでした。

子どもの発達や育児の悩みは、科学の進歩や社会制度の充実が進む現代でも、保護者や先生にとっては切実なものです。私は長年大学病院で小児科医として勤務し、てんかんや脳性まひなどの子どもの診療をしながら、小児神経学の研究をしてきました。その過程で、子どもの発達全般と環境について関心を持つようになり、注意欠陥多動性障害(ADHD)、自閉症、アスペルガー症候群などの発達障害をはじめ、発達全般と環境に関する研究に取り組むようになりました。さまざまな子どものケースや研究を通して私が感じたことを、子育てや教育の最前線にいらっしゃる皆さんにお伝えしたいと思います。

お茶の水女子大学名誉教授 医学博士 小児科医 榊原 洋一氏

「学びに向かう力」とは

私が取り組む研究の一つに、子どもの「社会情動的スキル(social and emotional skills)」の発達に関する調査があります。少し難解なので、私たちはこれを「学びに向かう力」と呼んでいます。

子どもが学校で教科を学ぶために必要な能力は「知能」、心理学では「認知能力」とも呼ばれますが、近年の研究により、認知能力が発達するだけでは効果的な学習成果にはつながらないことが分かってきました。

「マシュマロテスト」と呼ばれる実験をご存知でしょうか。5歳くらいの子どもの前にマシュマロを置いて、「すぐに食べていいよ。でも、15分間我慢したらもう一個マシュマロをあげるね」と言って、子どもを一人きりにします。すると、すぐに食べてしまう子どもと、我慢して待ち、もう一個もらう子どもに分かれます。同じ子どもたちをフォローアップして、実験から10年後に詳細な調査を行ったところ、実験を行った時点での子どもたちの知能(IQ)は、すぐに食べてしまった子どもも15分待てた子どもも同じでしたが、10年後には学業成績だけでなく、社会性や共感能力など、すべて「15分間待てた」子どもの方が高かったのです。

この「我慢できる」能力こそ「学びに向かう力」の一つで、その後の学力だけでなく、しっかりした大人の社会人になるためにも必要な「共感力」や「コミュニケーション力」などさまざまな力につながるものであることが分かりました。しかし知能と異なり、このような力は教師が教えて学べるものではありません。どうしたらこのような力を養えるのか、世界的にも研究が進められている興味深いテーマの一つです。

日本の子どもの「自尊感情」は本当に低いのか

子どもの発達を考える時、このように多角的な視点で考えることはとても大切です。例えば、日本の子どもは「体の健康」という面では世界でもトップレベルです。これだけの人口規模で、ここまで子どもの死亡率が低い事実は誇れることです。また、学力が平均的に高いことでも世界的に知られています。このように、一見子どもの「理想的な発達」を実現したような日本で、近年課題として指摘されているのが「自尊感情が低い」という調査結果です。これは欧米の国々と比較した調査結果なので、私は「本当に日本だけが低いのか」と疑問に思い、アジアで比較調査を行いました。その結果、日本はアジアの他国と比べると著しく低い訳ではないということが分かりました。また、日本やタイなど「相手に譲ること」「他者を立てること」を美徳とする文化がある地域では、自己主張や自分を誇るような言動は慎まれます。そのような環境で「これができてこそ一人前」と見られる「謙遜」や「周囲に配慮する」行動をとることは、必ずしも「自分を低く見ていること」が原因ではないと言えるでしょう。

子どもの行動には、理由がある

その一方で、日本では上に述べたような文化的社会的な規範に「従う(conform)」ことが当たり前とされているため、それを困難に感じるような子どもは自尊感情が低くなりがちです。例えば発達障害を持つ子どもは、中でもADHDの場合、日本の社会ではあまり褒められないような行動をとります。褒められる機会が少ないと、結果として明らかに自尊感情が低くなります。或いはIQが非常に高い「ギフテッド」と言われるような子どもは、先生の指示を「バカバカしい」とあえて無視したり反抗的になるケースがあり、「問題行動」とレッテルを貼られてしまいます。

不登校についても、「思いもよらないこと」がきっかけになるケースがあります。学校に行けなくなったあるお子さんに話を聞いたところ、「給食が全部食べられないこと」が原因だとわかりました。食の細さは身体的な個人差です。にもかかわらず、給食を食べきれない時に「あと一人でクラス全員が完食できる」とクラス全員に応援されてしまい、精神的に追い詰められてしまったのです。日本では、個々のニーズを軽く見て全体主義的な方向に導く傾向があります。大人は、一人ひとりの子どもの事情や気持ちを見逃さないように気を配らなければなりません。

「インクルーシブ教育」を考える

発達障害は、最近の統計によると日本では10人に1人位の割合でいると言われています。世界では人権や福祉の観点から、障害者が健常者と一緒に生きる「インクルーシブ」な社会を実現する運動が進んでいます。国連の「障害者の権利に関する条約」に含まれる「インクルーシブ教育システム」の制定もその一つで、「すべての子どもを、できるだけ地元の普通の学校で教育しましょう」という考えに基づいています。本来はどの学校でも、多様なニーズに対応できるように「必要な教員と設備が整った普通学級」を用意し、地域のすべての子どもが一緒に通えるようにすべきですが、これを実現するには、お金も手間も大変にかかる学校制度改革が前提になります。

日本では条約を批准したものの、公教育の一環である「特別支援学校」に通うことも「インクルーシブ教育である」と決定しました。時期を同じくして、発達障害への関心の高まりから、「過剰診断」が進む傾向が見られました。つまりグレーゾーンのお子さんでも、振り分けられて普通学級から特別支援学校に移るようなケースが増えたのです。このため日本全体では子どもの数が減っているにも関わらず、特別支援学校に通う生徒は2011年の11万人台から、18年には14万人強にまで増えたのです。これは「インクルーシブ教育」の概念とは矛盾する事態です。

どこにでも、いじめっ子はいるかもしれません。しかし助けてあげる子どももいて、クラス全体で協力し合うロールモデルのようなケースも出てくるでしょう。インクルーシブ教育は、本来の社会と同じ多様な環境で、さまざまな個性や障害のある仲間とともに、互いに理解し共感し合いながら人間関係を築くプロセスを学ぶ、貴重な学習機会でもあります。保護者の立場にある皆さんには、ぜひこのことをお子さんと一緒に考えたり話したりしていただきたいと思っています。

共感し合う社会を目指して

物質的に豊かで横並びな日本社会の学校現場でこのような振り分けが進むことにより、ますます多様な他者に接する機会が減っています。また日本では、最貧国で見られるような貧困の現実を目にすることもありません。そんな中で懸念されるのは、「他者に共感する力」「社会に貢献する思い」などが弱まっていくことです。

ある調査で、日本、中国、インドネシア、そしてフィンランドで、保護者に対して「子どもに何を望むか」という質問をしました。どの国でも多かったのが「親を尊敬してくれるような子どもになってほしい」などの答えでした。ところが、他の3ヵ国の回答では多かったのに、日本では極端に少なかった回答がありました。それは「社会に貢献できる人になってほしい」という答えです。つまり「自分たちだけが豊かで幸せであれば良い」という考え方が、日本の親には少なからずある、ということが判明したのです。子どもは親の言う通りには育たないものですが、ある程度は親が何を期待しているかを感じ取りながら育つものです。昔は「末は博士か大臣か」などとも言いましたが、科学の進歩や国の発展に貢献する人になってほしい、という期待が一般的でした。近年子どもに対する期待が個人主義的で内向きな方向に向かっていることは、社会全体として危惧すべきことではないでしょうか。

海外で暮らすご家族へのメッセージ

海外で頑張っているお子さんには、「何があっても大好きだよ、応援してるよ」という「無条件のサポート」を親御さんが示していただきたいと思います。ある研究で、心の中に「成績にかかわらず、常に自分をサポートし、好きでいてくれる人」を頭に思い描けている子どもは、前向きで逆境に強いことが分かっています。たとえ内心では多少がっかりしても、まずはお子さんなりの努力を認めてあげることが、次のステップへとつながる鍵なのです。

また、時にはお子さんがお友だちを作る機会を設けるなど、新しい場所で孤立しないように配慮してあげることも大切です。年齢が上がれば、塾や習いごとの先生など、親や学校の先生とは異なる立場で子どもに話をしてくれる大人の存在も貴重です。海外など多様な社会での経験は、必ず共感力や感受性を培い、豊かな人生の糧になりますので、大人は全力で支えていただきたいと願っています。

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https://spring-js.com/expert/expert01/yell/

 

※2019年4月25日現在の情報です。最新情報は各機関に直接ご確認ください。

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