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この人からエール

「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」著者 村岡 恵理 氏

2014.04.25

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命がけで翻訳された「赤毛のアン」 ~幸せの灯火~

はじめに

 皆さんは「赤毛のアン」というお話をご存知でしょうか。カナダのL.M.モンゴメリ原作のこの物語が、翻訳者である祖母の村岡花子によって日本ではじめて紹介されたのは第二次世界大戦直後 のことでした。

 この4月から放映中のNHK連続テレビ小説「花子とアン」の原案となった「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」で、祖母 の人生を孫の私が書くにいたったのには色々な理由があります。

 私は幼いときから祖母と「赤毛のアン」のことを母から聞いて育ちました。「カナダ人の友人から託された原書を、第二次世界大戦中に命がけで訳したもの」だと。戦時下では英語は敵国語。なぜ祖母は危険を冒してまでその本を訳すことにこだわったのだろう。空襲警報の最中、原書と翻訳原稿を持って逃げた覚悟とは何だったのか。英語が好きでカナダ人との友情があったというだけでなく、もっと深い動機がなければできないことではないか。 私の中でさまざまな問いがめばえ始めました。

 村岡花子の生きた時代、日本には子ども向けの良書が少なく、教育をうける機会も不平等、婦人参政権もありませんでした。資料がぎっしりつまった祖母の書斎で過去を手繰り寄せる作業を進めるうちに、高度経済成長期に生まれた私には想像もできない「当然の権利がない世界」を目の当たりにし、改めて衝撃が走りました。本がなく学校にも行けない子どもたちがあふれ、女性にとっても生きるのが困難な社会の中で、花子はいかに生きたのでしょうか。そして、もし今生きていたとしたら、子どもたちに何を伝えようとしたのでしょうか。

村岡花子の生い立ち

 村岡花子は10歳のとき、給費生として父親の多大な期待を背負い、カナダ人宣教師が教鞭をとる東洋英和女学校に入学しました。当時は、限られた特権階級の人しか高等教育を受けられなかったので、花子は入学後、二つのカルチャーショックを受けることになります。一つは、西洋文化・英語との出会いであり、もう一つは自分とは別世界の上流階級出身の同級生との出会いでした。

 規律正しい寮生活は英語で行われ、「神様のもとでは全てが平等である」という精神のもと、当時の社会常識とは別世界の寄宿生活を通じて、花子は次第に向学心をのばしていきました。

 また一方で、一見華やかに見える華族や富裕層の華やかな女性たちでさえ、必ずしも幸せでないという事実にも直面しました。花子をとり巻く実家の庶民の生活と、裕福な学友たちの境遇の両方を見ていたことで、花子のリベラルな精神が築かれていきました。

 もともと大の本好きの花子は、東洋英和の図書室にある英語の原書を夢中になって読みふけり、15、6歳のころには学内で「英語の花ちゃん」と言われるほど、英語が得意になっていたようです。

日本文学との出会い

 英米文学のとりことなった16歳の花子は、大正天皇の従姉妹でありのちに歌人となる柳原白蓮(びゃくれん)女史に出会い、その後の人生に大きな影響を受けます。年上の学友である白蓮女史は日本の古典文学全般に精通しており、源氏物語などを詳しく花子に説いてくれたそうです。英語と英米文学ばかりを勉強していた花子は日本の文学についての知識は浅かったため、自らの教養の欠陥に気づき、自国の文学も学ぶことを決意します。

 その後、歌人佐佐木信綱先生の門下生となり、短歌を学ぶようになります。五・七・五の形式美と、言葉を厳選しながら表現すること、日本の言葉の周りに漂っている感情や色を感じ取ることを身に付けていきました。そして佐佐木先生が薦めた森鴎外翻訳のアンデルセン作「即興詩人」を読み、その日本語のあまりの美しさに、翻訳文学のあり方について深く真髄に触れることとなります。

 花子は多感で瑞々しい感覚を持つ十代のときに、西洋文学と日本文学の両方に出会い、外国人教員や年齢を超えた友人との語らいの中で、英語と日本語の言葉に肌で触れ、その感覚を全身で習得していきました。

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