グローバル教育
みんなが知りたい!「バイリンガル」の育て方 ~体験者がリアルに語る、当時そして今~

「海外生」「帰国子女」にとって、海外では英語力をつけることが最重要課題と言えます。しかし、英語力が身につくにつれて日本語力の不十分さが顕著になり、帰国後は習得した英語力が徐々に失われていくことに悩む方も多いようです。
バイリンガルは実際にどのような体験をし、自分の将来につなげていったのでしょうか。長期にわたり海外生活をしたお二人に、お話をうかがいました。

TEMPUR SEALY アジア地域マーケティング統括部長
濱松 幹昌さん

TEMPUR SEALY アジア地域マーケティング統括部長 濱松 幹昌さん

TEMPUR SEALY アジア地域マーケティング統括部長 濱松 幹昌さんの経歴

アメリカの環境に浸りきる

私が海外で過ごしたのは通算20年と、人生の大半を占めています。父の駐在で小学3年生の途中でアメリカへ行き、当初は公立校へ、その後は両親の方針で私立校へ編入しました。私の編入した私立校では、日本人の入学は初めてであり、外国人と言っても一切の特別扱いはありませんでした。公立校に比べ宿題の量もかなり多かったので、補習校もやめて退路を断ち、とことん英語に向き合いました。アメリカの文化と習慣に浸りきった日々で、友人も皆アメリカ人でしたが、家族とは日本語で話す約束をしていました。

アメリカ人として生きられるか

中学に入った頃は、このまま同じ私立校を卒業し、アメリカの大学に進学することが自分にとっては自然な流れだと感じていました。ある日父と今後の進路を話す機会があり、父から「お前は、アメリカ人になれると思うか」と訊かれました。ようやくアメリカに慣れた今、なぜ父はそんなことを聞くのか、と戸惑ったものです。ただ、父の言う通り、アメリカ人に似せて生きても私の国籍は日本です。「日本人であることを無視して生きることは、やはり不自然で難しいことではないか」と考えるに至りました。 そうして、父を米国に残して母と日本へ戻ることを決めたのです。幸い、日本では帰国生が非常に多い私立高校に入学することができました。当時は、同じ帰国生たちからも「お前はアメリカ人だな」と言われるほどでしたが、日本人のルーツを取り戻しに日本に戻ったのだと、今は考えることができます。

一番苦労したのは、日本語の読み書きです。母と祖母にも助けてもらいながら、毎日全ての教科書のわからない漢字を自分で調べ、予習に明け暮れました。「とりあえずやってごらんなさい」と母に励まされ、ひたすら日本語と向き合いました。すると、高校2年の終わりには、 授業に自然とついて行けるようになりました。

大学、就職、そして今の夢

大学はデザインやアートに関心があったことから、日本の芸術系の大学に進学しました。その後はP&Gなどの外資系企業を顧客とするデザイン会社に就職し、 広告代理店を経て、現在はシンガポールを拠点に世界最大の米国の寝具メーカーで、アジア・オセアニア6ヵ国のマーケティングを統括する立場にあります。チームは40名、上司はロンドンベースのイギリス人です。 多国籍の価値観の下で各国のスタッフと関わるこの仕事は、今までの海外生活がなければできなかったことだと思います。

今の夢は、アメリカの大学院でもう一度学ぶことです。就職前に一旦アメリカへの大学院進学に挑戦しましたが、その時は夢を果たせませんでした。幸いにも現在の上司から信頼を得ることができ、仕事を続けながら大学院進学をサポートしてもらえることになりました。まだ私の夢は道半ばですが、常に前を向いて進んでいきたいと思います。

海外生・帰国生の皆さんへ

小学3年の時の渡米でも、高校入学のための帰国でも、「言葉」が私にとって大きな壁として立ちはだかりました。そして、その「言葉」の壁を乗り越えるために、両親はその都度、自分に合った環境を探し、特に学校選択には執心してくれました。精神的に追い込まれることなく、楽観的に日々を過ごせたのは、家族の温かい雰囲気のお陰だったと思います。英語でも日本語でも、同級生と同等の理解ができるようになるまでは2年の歳月がかかりました。皆さんも即結果を出そうと焦らずに、「2年後には何とかなっている」というゆとりを持ちながら取り組んでいただきたいと思います。

もう一言

言葉が出来ない時、得意な絵を描いて友だちを作った。言葉がなくても伝える術はある。

エジンバラ大学 博士課程
窪田 麻希さん

エジンバラ大学 博士課程 窪田 麻希さん

エジンバラ大学 博士課程 窪田 麻希さんの経歴

日本語維持のために

父の転勤のため渡米したのは、小学1年生の時でした。はじめの1年間こそ英語で苦労したものの、その後は現地校でも不自由がなくなり、むしろ日本語を忘れずにいることの方が大変でした。家庭では必ず日本語を使うこと、週末の補習校はお稽古や遊びよりも優先して通うことなど、家族には日本語を失わないための明確なルールがありました。 補習校の沢山の宿題をこなして大変だったことも、日本帰国後の大切な下地になったと実感できます。

2つの文化の狭間で

アメリカの生活を家族ぐるみで心から楽しんでいましたが、小学6年の夏には父の駐在が終わり帰国することになりました。英語を続けるためには私立中学が良いだろうという両親の助言もあり、地元の私立中学に入学しました。ところが、英語は取り出し授業などがなく、英語の授業中は先生に当てられることもなく、自分一人違う勉強をしていても許される状況でした。

入部したバスケットボール部では上下関係が厳しく、ある時は部員一人がしたことで 連帯責任を取らされ驚きました。先生には「納得できない」と反発したこともありました。今でこそ、欧米の個人主義と日本の全体の和を重んじる文化の違いだったと理解できますが、当時は「もしかしたら日本は私に合わないかもしれない」と感じたのを鮮明に覚えています。

自信を失った「英語力」

高校生の時、「もう一度北米へ行きたい」と言う気持ちが募り、今度はカナダの公立高校へ単身留学することになりました。中学時代は「英語が得意な生徒」としてイベントや留学生のお世話などにも積極的に関わることがありました。しかし、カナダの高校では、武器であったはずの英語が通用せず、私の中の自信がガラガラと音を立てて崩れていきました。「辛いときは必ず家族へ電話する」、そう決めていたので、母には何度も国際電話で泣き言を言いました。母からは「自分で決めたこと。最後まで頑張りなさい」と叱咤激励され、何とか奮起し猛勉強しました。最終的には 飛び級まで認められ2年間でカナダの高校を卒業できました。達成感はありましたが精神的に相当辛い日々でもあったので、自分を見つめ直すためにも、家族のいる日本へ帰国することを決めました。

研究者の道へ

その後東京の国際基督教大学(ICU)に進学することになり、留学生や帰国子女が多い環境で、ようやく私らしくいられる場所が見つかったことを喜びました。 大学ではご自身も帰国子女である教授と出会い、言語教育の研究者こそ私の生きる道だと気づきました。1年間の交換留学ではスウェーデンを選び、日本語教育も学び、その後オックスフォード大学、エジンバラ大学へと進学しました。

私の一貫した研究テーマは「母語獲得と第二言語の喪失」です。日本と外国を行き来した自分や家族が、もし専門家のアドバイスを得ていたなら、また違う道、違う体験があったかもしれません。 私と同じような思いをしている海外生・帰国生たちの言語習得と喪失のプロセスを科学的に明らかにすることで、実践的な対処方法を打ち出したいと思っています。

海外生・帰国生の皆さんへ

私が帰国した学校には英語の取り出し授業がなく、その後の留学ではブランクの大きさを痛感しました。帰国の際には、英語の取り出し授業がある学校や、居場所を見つけられやすいように多くの帰国生が通う学校を選ぶことができたら理想的だったと思います。

現在私は帰国子女35名にご協力いただき、母語や第二言語に関する調査を行っています。研究結果を広く活用していただけるように頑張りたいと思います。

「第二言語の喪失」とは?

完全にその言語を忘れてしまうことではなく、頭の片隅にあるはずのことが思い出せない状態を言います。

① 流暢さが失われる
  例)「あー」「うー」などの言葉が良く入るようになる
② 語彙が出てこなくなる
  例)知っていたはずの言葉が思い出せない
③ 文法が出てこなくなる

帰国後に英語(=第二言語)を忘れないためには?

とにかく、本を読むこと。その言語を日常で使えない状態でも声に出して本を読むことなどが有効。

もう一言

父は、好きな道に突き進むことの大切さを説いてくれた。

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