海外生・帰国生へのヒント
Vol.10 シンガーソングライター/音楽プロデューサー Sachiyo氏 ~シンガポールと日本をつなぐ歌手として

私が歌手として音楽活動を始めて、今年で21年目を迎えます。現在は、日本とシンガポールの音楽親善大使として、日星文化交流事業に出演しながら、シンガポールの文化や歴史・異文化交流の講演も行っています。私の原点は、幼稚園から中学までを過ごし、現在の仕事の拠点ともなっているこのシンガポールにあります。

Vol.10 シンガーソングライター/音楽プロデューサー Sachiyo氏 ~シンガポールと日本をつなぐ歌手として

「日本人」という看板

父親の駐在でシンガポールに移り住んだのは、建国後わずか7年目(1972年)のことでした。当時はまだ戦争の傷跡から反日感情が人々の心に色濃く残っており、日本人と知られると、卵を投げられたり乗車を拒否されたりすることもありました。幼い私には理解ができず「なぜこんな目に遭うの?」と両親に尋ねたものでした。

ちょうどその頃ご縁があり、シンガポール・エアラインの日本人初「キャンペーンガール」に選ばれました。来星する日系団体の歓迎イベントでは「日本人の子ども」として花束を渡し、着物でお出迎えをする機会がありました。子どもなりに強く感じたこと、それは異国の地では良くも悪くも「日本人という看板」を背負っているのだ、ということでした。

日本の生活で受けた衝撃

家庭の方針と自分の意志もあり、高校は日本の学校に通いました。シンガポールでは「日本人」を意識しながら生活していたため、日本での生活には何の不安も感じていませんでした。しかし実際に生活が始まると、大きな衝撃を受けました。私の内面はすっかりシンガポール気質になっていたことに気づかされたのです。

英語には、明確に意思表示をする文化があります。日本でも同じ気持ちでいた私は、周囲から「きつい」と色眼鏡で見られるようになりました。一時は登校拒否にもなり、「日本のスタンダード」について悩み、考えました。

至った結論は物ごとをはっきり言わない、そして「よろしければ」など、日本語特有の婉曲的な表現を用いることでした。こうして私は、2つの国の狭間で、双方で生きるバランス感覚を身につけようと努力しました。

歌手を目指して

小さいころから音楽が大好きで歌手への憧れがありました。親のすすめもあり、大学卒業後は一般企業に就職をしたものの、長年抱いていた夢を諦めることができず会社を辞めて日本でボイストレーニングの学校に通いました。周囲には反対もされましたが、私の中には一点の曇りもありませんでした。その後、数々のご縁があり、97年に日本でプロ歌手としてデビューしました。

2009年より活動拠点をシンガポールに移し、2011年にシンガポールでアルバムを発表した直後、あの東日本大震災が起こりました。シンガポールにいた私は、日本人として衝撃と悲嘆に心を震わせながら、自分に何ができるかを必死で考えました。被災された方々を自分の音楽で励ましたい、力になりたいという願いから、オリジナル曲「A Song of Life」を書きました。そして、シンガポール音楽界の方々とともにCDシングルを制作・販売、収益金を被災地に寄付いたしました。現在も、毎年被災地でコンサートを開催しており、伺う度に謙虚な気持ちで、「音楽を通して自分の使命を果たしていこう」という想いを新たにしています。

日星の架け橋として

私が作詞作曲した「帰国子女ブルース」という楽曲には、「隣見て変える価値観なんていらない」という歌詞があり、私自身が10代で体験した苦しみや揺れ動いた気持ちが込められています。日本と外国で育っている子どもたちは皆、その境遇ゆえに自分自身を中途半端と感じ、悩むこともあるでしょう。しかし、やがて2つの国が自分の故郷であることを実感し、多文化に対して「バランス感覚」を養える素晴らしい境遇にいたことを、心の底から感謝できるようになると思います。

私の目標は、日本とシンガポールの架け橋として、これからも両国を繋げるさまざまな事業に積極的に参加し、貢献していくことです。両方の間で悩んできたことが結晶となって、私にできることが見えてきたからです。私の活動を通して、日本とシンガポール「2つの故郷」の文化を繋げることができるよう、精いっぱい歌い続けていきたいと思います。

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