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プロフェッショナルが語る医療の比較文化論

海外在住の皆さんは現地で歯が痛んだ時、どのように考えますか。保険が効かない、治療費が高い、もうすぐ帰国だなど、我慢したり治療を先延ばしすることが多いのではないでしょうか。
異国の地での治療の考え方について、実際に世界を舞台に活躍する歯科医師の見解をうかがいました。ぜひ参考にしてください。

各国の制度が作る「医療文化」

歯科医師(日本・シンガポール・中国・韓国)
秋山 逸馬 氏

プロフィール
日本大学歯学部・同大学院卒業。医局員時代に大連市からの要請で病院開業や韓国の国際学会設立に参画。2002年に大学病院を退職後に来星し邦人歯科医療に従事。11年前クリニックを移転し「日本デンタルセンター」を設立。歯科医院運営にも携わる。

バングラディッシュでの講演風景 (c) Dental scholars of Bangladesh society (DSBS) バングラディッシュでの講演風景 (c) Dental scholars of Bangladesh society (DSBS)

はじめに

歯科医師としての海外との関わりは、大学卒業後の研修医時代から始まります。当時、歯科医の研修医制度が発足されたばかりで研修病院自体も各国の大学や大学病院と連携していました。研修医での治療報告がアラバマ大学の教授の目に留まり同大学でのテキストに紹介されるとともに、米国の歯科器材メーカーから表彰を受けました。大学院へ進んだ後も主任教授から年に一度は海外で発表するよう指導され、徐々に諸外国の医療従事者・研究者とのネットワークを築く機会をいただきました。

研修医時代の表彰状。 研修医時代の表彰状。

1998年に学会発表を行ったのが、私にとって当地での活動の始まりです。そして、何より大きな転機となったのは、02年に日本とシンガポールの間で発効されたFTA(自由貿易協定)でした。「ヒト・モノ・カネ」の行き来を自由で活発にするため、「在留邦人のみを治療対象とする」ことを条件に、二国間レベルで日本人歯科医師5名(現在は15名)と医師15名の受け入れが認められるようになりました。大学の先輩方や当地の友人歯科医からのすすめもあり大学院卒※に限って認められたFTAドクターの一号として当地に赴くことになりました。
※08年より条件が緩和され、院卒に限らず大卒のドクターでも認可されている。

現在、日本は15ヵ国とFTAを締結しています。医師免許の相互承認しているのは日星FTAに限られ2ヵ国の経済連携の強さや歴史を実感し、また邦人医療制度確立に尽力された先人の努力は計り知れません。当地では80年代から「厚生省レベル」で日本人医師の邦人診療が認められましたが、歯科は不認可であった為に前任者で同門の歯科医師は約20年間厚生省および当地のMOHに日本人歯科医の認可を申請し続けてきました。結果として99年から医科と同様に「厚生省レベル」での日本人歯科医数名が認められるようになり00年から当地に赴任し診療に従事しました。しかし、齢60からの新天地ということと日本の歯科医師会からの帰国要請で私と交代するという形になりました。帰国後はご自身のクリニックで診療する一方で「歯科医師連盟」の会長職を10年以上勤め、ご活躍されています。

歯科医師になって22年、今では海外での経験の方が幾分長くなりました。常に考えること、それは各国の医療の現場には国特有の制度や理念・習慣からなる「歯科医療文化」が、色濃く治療に反映されるということです。

日本の歯科事情

かつては日本でも「歯科医」というと高収入の職業の一つと思われていました。しかし30年程前からは歯科医の数が過剰となり、少子高齢化で歯科疾患構造も変化するなど厳しい環境に置かれ、海外に目を向け始める歯科医も増えているのが現実です。歯科医師一人に対する患者の割合は00年には約1,600人でしたが、現在は約1,200人(シンガポールでは約2,500人)となっています。少子化とそれに伴うう蝕(虫歯)などの減少は、保険診療を主体とするクリニックの受診件数の減少に繋がり、減益に直結する為に厳しい経営環境につながっています。

シンガポールの歯科事情

シンガポールには「健康で暮らす」ことを重んじる文化があり、「医療」は生活、そして教育の一部と考えられています。例えば、「歯磨きの仕方」や口腔衛生観念は日本では歯科医院で指導するのが一般的ですが、当地では学校で指導、或いは家庭での躾と考えられており、より生活に密着しています。当地の水道水には虫歯予防の為に仕掛けがあることをご存知でしょうか。それは「フッ化水道水」です。当地の水道水には「フッ素」が入れてあり、歯磨きやうがいなど、水道水を口にする度に歯を丈夫にし虫歯予防に多大な効果を発揮させるという取組みを、建国以来行っているのです。実際にう蝕罹患率(虫歯になっている割合)は0.6(日本は1.4)と圧倒的に低く、それらの効果が示されています。

う蝕罹患率(虫歯になっている割合)

う蝕罹患率の推移

「医療」は文化であり生活の一部

「医療」は、その国の社会制度や文化を大きく反映していると感じます。例えば、日本では虫歯の治療には保険対象である金属を入れることが一般的です。白いセラミックを選びたくても、自費負担になるが故に諦めた経験を持つ方もいらっしゃるでしょう。ところが原材料費から考えると、セラミックの方が明らかに安いのです。つまり国民皆保険制度がない国であれば、セラミックでも銀歯でも同じ感覚で自由に医療を選択することができます。

医療制度の大半は社会制度を反映しています。各国の歴史背景が異なるため比較しにくい側面がありますが、国家間の差から学ぶ案件は大きいのです。どの制度が良いかというコンセンサスはなく、いずれの国でも医療の平等性や質を確保しながら効率を向上させる試行錯誤(制度改革)が繰り返されています。ただ、「良い医療を求める」上で常に問題になるのは、経済成長を上回って医療費が高騰するという点です。

ラオスでNPOのもと、抜歯などの治療を行う ラオスでNPOのもと、抜歯などの治療を行う

歯を残すために

患者さんから「治療した歯が何年もつのか?」とよく聞かれます。そこで興味深い研究をご紹介しましょう。次の表は米国の研究者が治療精度の良し悪しと、10年後の歯の残存状態について研究した表です。「根管治療」と「支台構造」という2種類の治療において、一貫して質の高い治療をした場合と、精度にばらつきがあった場合では治療後の歯の健康に大きな差があることが示されています。特に興味深いのは、グループ3の結果です。歯の神経の治療である「根管治療」が成功しているよりも、クラウンや歯の機能回復を目的とした「支台構造」が成功している方が10年後の予後が良いことです。長期的な歯の健康には、治療の一貫性と確実な早期の機能回復が重要であることがこの臨床研究で証明されていると言われます。

根管治療と支台構造の状態による10年後の成功率

自国を離れ海外を異動する患者さんの多くは、海外では一時的な応急措置として歯科治療を受け、残りは帰国後に保険治療でと考える方が多々いらっしゃいます。多くの方にとって歯科治療はネガティブなもので気持ちは理解できるのですが、歯科治療は可及的速やかに行われることが何よりも大切で、機能回復が完了しないと歯の生存率が一気に低下してしまいます。

海外では異なる医療制度や治療費など一時的な状況に囚われて治療を躊躇しがちですが、先ずは歯を残すために最良の方法は何かを考え、ご自分に必要な治療を選択することが一番大切です。

歯科医師としての今後

日本は加速する少子高齢化や人口の減少を背景に、国内市場の縮小に歯止めがかかりません。今後も在外日本人の数が増える以上、若い医師・歯科医師も海外に出るべきだと感じています。 しかしその一方で、海外で活躍する邦人医師・歯科医師の技術や医療に対する意識に差が生じており、「グローバル化の歪み」が出ていると感じることもあります。

私は現在、一臨床歯科医であるとともに医院経営にも携わっています。歯科医師にとって、経験や症例を考察する上でクリニック自体を改良することが必要になりますし、歯科医師としてのライフステージバランスにとっても医院自体の主体となる必要があります。今後はシンガポール以外の国でも海外で活躍される邦人の歯科医療に貢献し、自分自身も多くの国々の歯科医療や文化を理解できればと考えています。元来きめ細かく質の高い日本の歯科治療を提供する臨床医として、どの患者さんにも満足いただける医療を提供するように心掛けていきたいと思っています。国により歯科治療の文化や治療の選択・進め方などが異なる中で、海外に住む多くの日本人に医療文化・保険制度を背景にした治療について丁寧に説明することで理解を深めていただき、治療した歯を長く保っていただくことを願ってやみません。

※2017年9月25日現在の情報です。最新情報は各機関に直接ご確認ください。

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